総務部メルマガ

2010/01/05

第93号

<コンテンツ>
謹賀新年 元気が出るためのインテリジェンス!
官僚制資本主義?を、
在庫処分が経済危機(恐慌)の打開策
80年前の戦争を繰り返さない政策
個別企業の現実では、生臭い話もあり得る
だとすると、自立して努力する個別企業、
だが、若者のやる気、
個別企業の給与計算方法
個別企業の労使紛争、この解決方法も様変わり
【書評】『労働争議?ある調停者の記録』 サイラス・チング


謹賀新年 元気が出るためのインテリジェンス!
日本の社会や経済をめぐる年末年始の議論、政府の新成長戦略が出たとはいえ、あまりにも、マスコミの論調はボンヤリしている。表向きの話と綺麗事に終始をして、誰もが突っ込んだ論議に入ろうとしない。この100年に一度の経済危機、450年に一度の金融不安と言いながら、評論家でさえ、問題提起がないのだ。これでは、新年からのスタートは、何をどのように切ればよいのか分からない。
そこで幾つかの、あえて刺激的な議論を、紹介または展開(筆者の願いにあらず)することとした。

官僚制資本主義?を、
日本は明治維新以来貫いているというもの。途中、軍国資本主義経済に傾き、次にアメリカの下請け経済で大成長となり、利回り金融資本に傾き痛手を負って、現在に至るといったところであろう考え方となる。官僚制資本主義を抑制するための、「官庁や公務の労働者」の労働運動(官公労、電産、郵政、国鉄、電々ほか)を、終戦から順次抑圧したから官僚は暴走したのだとの主張までが、一方の学者から飛び出しても来た。であるから、脱官僚依存を目指さない限り、それを主張する人たちにとって有利な経済社会が訪れないとの結論である。よって、具体的経済政策の議論よりも先に、官僚によるコントロールを排除することで、「富の再配分」を成し遂げようといったことに意味があるのだ。もちろん、国家(官僚)による統制にきわめて強い警戒感を持っていることとなる。官僚の進めて来た(社会主義風)計画経済を排除して、民間主導の経済活動を育成したいということになる。その抜本的具体策としての新成長戦略の内の、東アジア共同体、環境・エネルギー、(革新的)健康(医療介護)産業、と言われるものなのであろう。さて、此処で読者の貴方は、どう考えるのか?


在庫処分が経済危機(恐慌)の打開策
というか議論である。これは、「まさしく正しい理論」である。エコポイント施策での自動車や家電製品の在庫処分を国をあげて行うことは正解である。延命価値のない企業には資金融資をしない、塩漬けの土地をたたき売らせる、後期高齢者医療制度の継続、現行老齢年金制度の継続・ご破算、これらも単なる帳尻あわせの在庫処分といった視点ならば正しい議論である。ところが昔はもっと酷い打開策を実行していた。
日本は昭和大恐慌のとき、いち早く内需拡大政策で経済回復を果たした。それは、洋服、洋食、リンゴ、キャベツなどが生活の目の前に現れ、日本は8年後には回復した。ところが、世界的には、世界恐慌の解決は第二次世界大戦による在庫処分であった。過剰となった在庫とは、工場・生産財、国民の消費財、国家の公共財、軍事の設備や消費財といった誰でも思いつくものに限らず、 余った労働力も在庫処分(戦死)の対象だったのだ。日本の軍国資本主義経済に群がった低生産性の在庫(モノ&ヒト)は、日本軍の超愚鈍級官僚のおかげで在庫処分が進んだ。そこでは止まらず、昭和20年の半年間だけで、全国の老朽工場設備(工場空爆)、女、子どもなど予備的労働力(新型焼夷弾で都市空襲)、精神論的生産意識(極めつけは原爆)に至るまで、陸海軍大臣らの連合軍への挑発が、結果的には戦後経済成長の礎となる在庫処分を進めたのだった。これは、皮肉ではなく、歴史の真実である。
最近は、経済学者のアダム・スミスやケインズの理論を、自分に都合良く中途半端に持ち出す人がいる。あまりにも酷いので、昨年秋から筆者は昔を振り返り、研究し直してみた。アダム・スミスは、王様主導による国家統制経済に対しての自由貿易主義の理念を説いたのであって、そのイメージだけで現代に適合出来る理論ではない。ケインズは、フォード主義労使関係(労働生産性上昇と賃金上昇が連動)を前提にした論理であり、その上でも、ニューディール政策や福祉国家で大恐慌が解決出来るとは言わなかった。むしろ、大恐慌発生源の金融バブルを抑え、モノ&ヒトは国内需給重視、金融も国内に留めるといった国家的管理を主張していたようだ。


80年前の戦争を繰り返さない政策
これが、現代日本にはきわめて受けが良いのは事実だ。大戦争による在庫処分との戦争待望議論が起こるかも知れないが、現代は戦争方法が様変わりしている。本国のエアコンの効いた部屋から、GPSと無人飛翔体による攻撃、加えて宇宙戦争の方法だから戦争は極度の金食い虫にすぎないのだ。過剰生産物の在庫処分は期待出来ず、イラク戦争はアメリカの軍事品在庫処分を兼ね、陸軍の動員は失業対策事業とまで揶揄されている。こうなってくると、戦争を繰り返さない政策に経済環境は傾いて行くのは必至だ。
個別企業における、新しいビジネスは、ここの経済環境に適合する必要がある。(ただし、個別企業における在庫処分が有効に進められての話である)。経済環境の判断を誤れば、製造部門への人材派遣業のように、企業単位の在庫処分が待っている。
それは、個別企業内外で、人・物・金それぞれの「信用格付」での効率性の向上である。もちろん、北欧諸国に見習って、きわめて高い利益率を生み出す能力とシステムも、一層のことに不可欠である。
そうすると、次のような議論に発展するのは自然だ。
1.格差解消に留まらず、富の格差縮小促進とセーフティーネットの充実
2.金融資本への投資を、産業資本への投資に転換(環境・エネルギー?)
3.モノ&ヒトの在庫処分ではなく、活用と発育発達の戦略・対策
4.(裏舞台では)人・物・金の急激な在庫一掃と富の再配分の強行


個別企業の現実では、生臭い話もあり得る
ことになるのだ。イギリス産業革命のとき、職人達は機械化による失業を恐れ、「機械打ちこわし運動」を行ったが、それより先に職人の作った品物は売れなくなった。日本でも、自動車の輸入により人力車夫が失業を恐れ、「車会党」を結成、その後、人力車に縁のなかった人たちが自動車を買い求めた。現代中国の労働力は、あまりにも非熟練労働だから、技術革新の障害になると言われている。(昨年10月の中国情報で、都市部で人手不足発生、労働力需給バランス悪化、大学進学率上昇とのことだが、労働力調達基盤は相変わらず変わっていないと)。
そして、日本の新政権の政策理念は、「個人自立型の民主主義」を基盤にしている。昨年秋の事業仕分けで、旧政府・外郭団体や族議員の「恩恵」に群がる勢力を狙い撃ちにしている。要するに、セーフティーネットの充実で、「友愛?」とは言いながらも、個人で自立して努力しない人たち(個別企業)には、報いることのない経済社会となって行くのだ。すなわち、自立しない人と付随する財貨・財産は、在庫処分の対象となることが是とされる経済社会に向かっているのである。個別企業の努力が報われなかった時代(金融資本からは下請業態を迫られた時代)から、自立した努力で脱却を一層に目指さなければ!という訳だ。下請け根性一本で努力もせず経営してきた事業が、当然、在庫処分の対象になる経済社会である。製造業派遣の会社が廃業・夜逃げ・倒産の嵐にさらされているが、法律も社会もがこの在庫処分を歓迎している事例は、「在庫処分が是とされる論より証拠」そのものである。
これは国際的にも言える。東アジア共同体構想といっても、「個人自立型の民主主義」を基盤にした上での話、ということだ。日本が中国やインドに依存しても報いはない。日本が東アジア諸国に依存されても、報いを施す特権的な余裕はない。過去分析してみると、中国に進出して損害を被った企業とは、他人依存型(日本の金融機関?日本政府?中国共産党?人民政府?へ依存?)のビジネス展開であったことは間違いなかった。ところで、マスコミ評論家はEUを例えに挙げるが、(マスコミの不勉強の影響で)EUの基本理念は日本人に理解されていない。その根本理念の論点は、ヨーロッパで民族主義を根絶やしにし、社会民主主義を定着させ、民族主義の根源となる国家は崩壊させることであった。個人自立型の民主主義の更なる先を行く哲学であり、政治、経済、文化、宗教をめぐっての大論争である。庶民は街中の日常生活のこととして、他人依存型の勢力との熾烈な争の末での選択であり続けているのだ。


だとすると、自立して努力する個別企業、
自立して努力する個人の集団は救われることなり、その自立と努力の度合いが、経済や社会の発展と連動することになるのだ。要するに、セーフティーの網に掛からずに、寄りかかって生きる人&努力しない人を、社会的経済的に踏み台にして成り立つこと(在庫処分)は是とされる。ここの激論は、日本の民主主義の発展度合いとならざるを得ない。
経済社会が変わったから、元請けの「おっしゃる通り」の仕事をしていても、(在庫処分も含め)早晩報いられることはない。上司の言う通りだけの仕事する部下は使い物にならず、部下に報いを施す余裕はなくなり整理解雇(=在庫処分)、部下の依存心が反転すれば憎悪と恨みは強烈となる。
社会(通念)の考え方は、事実上のハンディキャップをつけて、平等にはするが、「貴方には教育もするが、援助もするが、努力せずに寄りかかるばかりなら、在庫処分の対象ですよ」といった具合に、均等にはしないとなるだろう。これでも人類の歴史からすれば、福祉と幸福の進歩には違いないのである。自立のチャンスは平等にやってくるからといったところだ。


だが、若者のやる気、
これは元旦のNHKスペシャルでも議論になったが、おいそれとは解決策が出て来るわけではない。そこで、筆者の問題提起ではあるが、「良心が抑圧されない状態」となれば、やる気を出す者が、徐々に若者などから現われはじめるであろう。本来の良心とは、「何らの後ろめたさも感ずることなく意思表示ができる心裏状態」の概念である。もとより良い性格とか善意とは無関係の概念、良心が強いとか弱い、曲った良心とか素直な良心といった形容がなされる概念である。ところが日本では、本来の概念が誤解され、今や死語(解説・研究も未熟)になりかけようとしているが、世界数千年来の歴史的転換点には、古今東西、必ず必ず出現する概念なのだ。すなわち「良心の自由」なのである。
老人は老婆心で若者の良心を抑圧し、成熟老化した組織は体制維持のため、若者の良心を抑圧する。老いさき逝くしかない、何れ潰れ消滅するしかない、そんな人や組織に付き合う生活を送っておれば、若者に限らず、やる気など湧き出て来るほうが不自然なのである。


個別企業の給与計算方法
に至るまで、時代の変化は影響して来る。「時代」が変われば、職務に見合った賃金体系が必要で、見合っていないことからサービス残業などの賃金トラブルが発生している兆し向きもある。だから一番に、銀行取引を盾に、銀行のコンピュータ稼働率をあげるために、銀行の給与計算業務に依存している個別企業などは変化を迫られる。金融機関に依存する程度が低くなった今、銀行コンピュータシステムに適合する勤怠データ社内整理に、大量の時間と労力をかけて、非効率極まりない給与計算を銀行に依存する意味はなくなった。それどころか、「労働時間に出社さえすれば働いた」と考えるとか、「残業でダラダラ稼ぎたい」と思っている会社依存型人間の発想を、ますます助長するような給与計算方式では、職務に見合った職務に見合った賃金体系に基づく、給与管理とか就業管理には程遠いのである。それでは、社員のやる気などが湧き出てこないように、経営者が抑圧しているようなもので、成果主義やコーチィングなど空回りするのは当たり前である。
自立して努力する個別企業に見合った給与管理となれば、コンピュータソフトに縛られた代物で無意識のうちに、システムが社員の働き方を縛っているのでは困るのだ。労働基準法を咀嚼(そしゃく)して給与計算を行うことは、健全な給与管理である。ところが、労働基準法の遵守と違反の堂々巡りで給与計算するなら、それは個別企業を国家統制の許に置くことになる。先進諸外国と比べ日本は個別企業ごとに賃金額決定がなされるが、(法で定める賃金に該当すれば)計算方式は事実上、綿密に労働基準法で国家統制されている。その国家統制は、意外なことに社会保険労務士などの専門家であっても、統制されていることにすら気づかず、無意識のうちに浸透しているのだ。だから、多くの経営者が、社会保険労務士に給与計算を外注するに至らない感覚的理由が、どうも此処にあるようだ。
さて現実は、ありとあらゆる個別企業が、「給与計算担当者」の長期確保に苦慮している。諸外国では、「給与計算係」は、一つの専門的な職業である。しかし日本では、賃金計算に関する国家統制が厳重であるから、素人でも職務遂行可能?との錯覚が生まれ、結果は素人だから遂行不能=高離職率が常態化しているのである。ほとんどの女性は3〜4年もすれば、精神的にも体力的にも疲れ果てて、監督職(係長)に昇進するまでに転職をしてしまう。転職が生じないケースは、発注者依存型・受注型業種の個別企業に多く見られ、今でも30年前と変わらぬ給与体系と就業成り行き管理であり、機械化と言っても、ボールペンからパソコンへと変化(投資効果は最悪)しただけのことである。給与明細書の見栄(みばえ)の効果は在るとしても、(女性でも監督職に多く在り)業務自体の生産性は低下そのものとなっているのだ。
「職業=給与計算担当者」にとっては、個別企業の経営方針の変化に伴って、給与の体系が微妙に変化することは承知の事柄である。この人が賃金規程の変更も手掛けるから、イレギュラーな賃金計算も予想が出来、したがって、計算業務の労働強度や労働密度が極端に高くなることにはならない。素人的発想からすると、責任感ばかり強調するものだから、担当者(素人仕事)の失敗と疲労が繰り返されることになるのである。職業人としての給与計算担当者は、法律で定められたものだけが給与といった考えは改め、賃金明細書に現れる外の、「貸与されている物、供与されている物、将来受ける財貨」をも考慮していているのが当然なのである。「賃金は法律で規定されている」と、これに固執する者は、似非法律家と国の行政職員でしかない。
時代の変化は、自立して努力する社員の集団=個別企業を求めている。その働き方は、仕事の完成が優先され、その結果が労働時間である。およそ、自立努力型社員は出来高制の賃金体系で、短時間労働を結果として選択しようとする。自立努力型労働者は労働と休息にメリハリをつけた短時間労働指向である。他人依存型労働者は長時間労働に陥りやすく非能率的である。他人依存型社員にフレックスタイムはなじまない。
こういった自立努力型労働者にこそ、個別の事業(企業)に連動した給与管理や就業管理が大切なのであり、その「給与管理アウトソーシング」が可能な外注先も、チラホラ出現して来ている。「個人自立型の民主主義」の社会経済構造に転換して行くとなれば、個々の「給与管理アウトソーシング」業者においての、「職業=給与計算担当者」の人材育成が進むかもしれない。


個別企業の労使紛争、この解決方法も様変わり
することになる。紛争とは、当事者双方の主張が一致しない状態のことであり、決して(役人のような)、公的機関に訴えが出た事案に限られるものではない。自立して努力する個別企業にあっては、それはそれで建設的な議論から、場合によっては建設的紛争にまで至るかもしれない。例えば、発注者依存型・受注型の事業であれば、都合が悪ければ労働者の在庫処分をすれば良かったし、労働者の給与が上がれば棚卸し処分をすれば良かった。だがこれでは、これからの社会では、当該個別企業自体が在庫処分される憂き目をみるかもしれないのだ。一昨年末の「派遣切り」のときの如く、個別企業レベルでは、さしたる労働問題に発展することは無い。ただし、それなりに事件化して、怨念に基づく労働裁判、上司の暴行や金銭決着は後を絶たない。運悪く連続すれば(実は運命ではなく必然と社会科学は診るが)、社員の労働意欲は再起不能、(人材派遣業のように)廃業や倒産にも至る。
今まで蓄積された日本国裁判所の判例や裁判例は、あくまで基本ベースが官僚制資本主義の計画経済に基づく個別企業とか、他人依存型哲学の企業であったりしていることがほとんどである。もとより、労働法の目的は、「公共の利益のために、いかなる行動をとるべきか、いかなる責任を負わせるべきか」が論点となっている。現行憲法のもとで、労働組合法、労働基準法、労働関係法は、こういった目的でもって整備され、今もそれは変わっていない。今や、その、「公共の利益」が世界的に変化しているのであるから、法律条文自体の変化はなくとも、今後は判例や裁判例が変更されるのは自然なのである。また、1〜2年前には、予想もしなかった課題での紛争解決に対処するには判例などない。そればかりか、新しい判例のだされることを期待して、弁護士に訴訟代理を依頼しなければならない。昔も今も、労使の力関係バランスを保つためとの考え方が出て来るが、それは法律の目的にも趣旨にも存在し得ないのだ。
ところが、似非法律家は、過去の判例などにとらわれて、自立して努力する個別企業にも、自立努力型個人にも、遠く離れた、「お門違いの判断」を下してしまう。労働審判ばかりが流行すると、一般国民からすると労働審判は事実上の強制裁判であり、裁判所や労働行政に盲従することとなり、労使双方が自ら解決案を練る意欲と責任感が壊されてしまうことになる。一部弁護士の、「裁判をやってみなければ分からない」との営業トークでは困るのだ。現在の労働審判では、十把ひとからげに金銭示談を裁判官が迫って来るが、それ(判事の業績評価)に組みする似非法律家では困るのだ。これは、自立して努力する人格からすれば、受け入れがたい生活態度である。時代は、共感に基づくルール(義務)を指向しているとの論議が法曹界でも華やかであるにも関わらず……である。
昨年の12月18日に、松下プラズマディスプレイに関わる最高裁判決判断が出され、労働側が敗れた。早速経営側の一部似非法律家は浮き足立って喜んでいるようであるが、実のところは労働側の手抜かり、おおざっぱな労働側の論証を最高裁判所が見抜いたにすぎない。これとて、労使紛争に関わる人間関係をよく理解出来てないから、法律の字句ばかりで物事を考えている現象なのだ。同類の訴訟が60件ほど控えているとの情報もあるが、その中には明確に職業安定法違反の要件事実が十分に論述されている事件もあるのだ。日産自動車、いすゞ自動車の期間雇用に関する裁判例を見ても、経営側が整理解雇四要素説にこだわり、(要素でも要件でも、現在の裁判所傾向は4個必要)、時代を見ず人間関係を理解せずに、会社側担当者が拘ったことによる敗北であった。裁判例の結果は、正社員に比べ厳しい期間契約中の権利保護、すなわち整理解雇より契約期間を優先すべきとの裁判例であった。筆者の言いたい趣旨は、大局的にみた場合、こういった裁判所での争い自体が、労使双方が力を誇示しようとするために、裁判自体を武器に扱っているとしか思えない、といったことなのだ。「公共の利益のために、いかなる行動をとるべきか、いかなる責任を負わせるべきか」が司法の場でも語られるべきであって、実態として経営者や労働者が、「裁判所や労働行政に盲従する」とか、解決案を「労使自ら練る意欲と責任感が壊されてしまう結果」になれば、やはりそれは官僚制資本主義とか統制経済にほかならないことになるからだ。
こういったことでは、経済や社会の発展は阻害されるばかりである。力の誇示や陣地の維持を本来目的として、事業を経営する者や労働を闘争に巻き込む者は、確かに存在する。が、それは、北米、EU、東アジア共同体の理念とは異なる。労使共々、自立して努力する人格は戦後の歴史にあっては、
斡旋 conciliation、 調停 mediation、 和解 reconciliation
といった道を選択して来たのである。戦後の経済復興期、日本だけでなく欧米各国は(行政などの)経済統制や(裁判所その他の)強制裁定の道は選ばなかった。これが、経営者や労働者を問わず個人の、労働意欲や研究開発意欲の根源となったことは間違いない。これによりアメリカは、世界での先端的優位の地位を独占できたのだ。一部に、アメリカの発展は資金(資本)財貨を投資できたからだとの説も出されるが、昨今の北欧諸国の成長を見れば、経営者や労働者が自立して努力する意欲に因ることは証明されている。
「にわか仕込みの一夜城」だとしても、新成長戦略と謳うのであれば、
「個人自立型の民主主義」を理念とするのであれば、
自立して努力する意欲をもとに、「高付加価値製品&高水準サービス」の商品提供を醸成するような労使紛争解決制度を育成することが重要となるはずなのだが、……ここは、今後に、期待するしかない。


【書評】『労働争議?ある調停者の記録』 サイラス・チング
  時事通信社 昭和31年10月20日翻訳発行 絶版(当時100円)
労働関係調整法、労働組合法の、理論的背景には、今でも不明な分野が多い。この本は、その背景を示唆・裏づけしているものだ。著者は、経営側の立場であり、アメリカの経済に労使関係の調停が貢献し、当時のアメリカ経済活動の発展を裏付けたとしている。パワー・オブ・バランスが労働法の目的ではないと、この時代に説いていた。 p.250 法律の字句ばかりで物を考える人は、団体交渉の一員としては、明らかに不適格と断定。p.217 労使双方の意欲と責任感が壊れるとして労働法廷制度には反対。p.159 この論述は、現日本の労働審判(個別斡旋制度に対抗して設立)の、示談の横行と金銭解決の強要といった昨今の現状に、60年前に警鐘を鳴らす理論である。
また、『秘訣はこうです。私は私のオフィスの戸をいつもあけておきます。苦情のあるものはいつでも飛び込んで来いというということにしてあります』……しかし、これはじつはみずからをあざむく愚鈍きわまることなのだ。」p.195 と説き、人事労務管理や人間関係の本質を説いている。
絶版だから、全国の図書館、労働関係資料室で借りて読むしかない。当時と今では日本語の語句の概念が異なることがあるとか、(活版印刷の)活字切れで漢字字句が違うとかで、文脈から判断して読み込みを必要とするが、労働法の底流ともなっている、とても貴重な書物である。

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